東京・世田谷美術館での「つぐ minä perhonen」会期中、トークイベント「ミナ ペルホネンのものづくり ―ひもとくと世界につながる―」が2026年1月11日に行われました。世田谷美術館の橋本善八館長が聞き手となり、ミナ ペルホネン創設者でデザイナーの皆川 明、ミナ ペルホネン代表でデザイナーの田中景子が登壇しました。この記事ではトークイベントの内容の一部をお伝えします。
「つぐ minä perhonen」ensembleの展示 東京会場
神奈川レースにて”forest parade”の刺繡が施されている様子の映像
photo: Manami Takahashi
――本当にたくさんのメンバーに支えられながら、この展覧会が開催できたわけですが、お二人が展覧会に込めた想いや会場をご覧になった感想をまずはお聞きしたいです。
皆川:長い年月をかけて準備をしてきたので、展覧会でやるべきことも準備中に少しずつ変化をしながら、最終的に今見ていただいているようなかたちになりました。部屋ごとのタイトルは音の言葉からとっているのですが、私たちの仕事をよく表していると思っています。
今回は「つぐ」という大きなテーマがあります。最初は、2019年の「つづく」展と音とも似ていて、少しユーモアもあるかなというところから始まりました。そして、実は「つづく」を深めていくと「つぐ」になるのではないか、結局「つづいていく」ためには「ついでいく」ことが必然的にあるのではないかという話にもなりましたね。
「つづく」展の頃は、私がチームを会社の代表としても引っ張っている時期でしたが、途中から田中にバトンが渡り、彼女のもとでミナ ペルホネンというブランドがチームとして再構成されていきました。もともと「せめて100年」という思いから始めたので、つまり私は途中でフェードアウトするし、そのフェードアウトこそが目的でもあるわけですね。
もちろんこの先しばらくは自分の人生としてミナ ペルホネンに関わるのですが、自分が必要ではなくなる時こそ、自分が1番求めている時なのです。体制が変わって4年経ち、今、とてもいい状況です。私はデザインにより専念できて、チーム全体は田中がデザインしながらまとめている。「つぐ」というタイトルにも、どんどんフィットしていっているような感じです。
田中:「つぐ」という展覧会のテーマを決めたときに、「つぐ」という言葉にたくさんの意味が込められていることに気付かされました。
2019年の「つづく」展は、私たちがどのようなものをつくっているかを見ていただく展覧会でしたが、「つぐ」はその言葉の通り、受け手や見ていただく方がいるから成り立つ言葉です。伝え継ぐこと、告げること、お酒をつぐこと......相手とのコミュニケーションをこの展覧会で表現できると、より私たちの活動の要素を見ていただけるのではないかと考えました。
私たちは出来上がってきた成果物だけではなく、プロセスをとても大事にクリエーションを続けて、そこを深く見ていただく展覧会になったのではないかと思います。
皆川:会場に立つと、自分たちのデザインでありながら少し客観的に俯瞰できましたね。このプロセスがお客様にも伝わったらいいな、単なる工程ではなく、その工程に含まれている人の気持ちや生命力がしっかりと伝わるといいな、と思います。「つづく」展とはまた少し違って、様々な視点からの人の感情を伝えられる場になったことを嬉しく思っています。
――さて、皆川さんと田中さんがデザイナーという仕事を選んだきっかけをお聞きしたいです。
皆川:私はもともとファッションというものをそれほど強く思って職業として選んでおりませんで....高校を出た後、ヨーロッパに数ヶ月滞在した際、たまたまパリでファッションショーのアルバイトをしたことがきっかけで、この仕事を選びました。
選んだとはいえ、確固たる自信もなければ、根拠もない。どちらかというと不器用ですし、学校で絵のコンテストなどで表彰された記憶もない。ただ、ちょうどその頃、父親が40年のサラリーマン生活を終えて定年退職をしたのですが、それは素晴らしいことだなと思ったのです。当時、自分は18歳でしたが、自分も40年間何か仕事を決めて、それを辞めずに続けてみようと思いました。それは得意か得意でないかはあまり関係ないのではないか、ただただ辞めずに、40年やることが意味深いのではないかと。
そしてヨーロッパから戻り、文化服装学院の夜間部に通ったのですが、思っていた通り成績も悪く、不器用で、課題提出もできずに留年するような学生でした。アルバイトでお金が貯まれば北欧に旅をしたりして、自分の芯になるようなものは何なのか、ただ洋服がつくれるようになればいいということではなさそうだなとモヤモヤ考えていました。ただ、辞めないということだけ決めていましたが、デザイナーになろう、ブランドを立ち上げようとは、始めた当初は一切考えていませんでした。
たまたま縫製工場に勤め、オーダーメイドの店で型紙を引く仕事をさせてもらって、小さなブランドで布を作るというプロセスを知って、自分でも洋服を作れるな、自分のブランドをやってみてもいいなと思って、始めたのです。淡々と会社に勤めた父を尊敬していましたが、その父は私の決断に反対していました。容易なことではないし、無理だと思うと。でも、それで逆に火がついて、「無理だと思うことをやってみたらどうなるだろう」と思いました。
18歳でファッションに出会って、縫製工場に勤めて、仕事を始めてから40年。父親に「同じ くらい続けたよ」と言える年になりました。とても強い思いではなく出発する人間が40年続けるとどうなるのか、ある意味、自分の人生を使って実験したみたいな感じで。今の状態がうまくいったのか、うまくいかなかったのか、自分では評価できないですが、それでも今になってみると、苦手なことでも続けているとなんとかなることを示せたのかもしれないなと思っています。
田中:魚市場の話はいいですか?(笑)
皆川 明(左)田中景子(右)
皆川:あはは。始めた頃はお金がないという現実から、魚市場で働いていました。魚市場の朝は4時からで、お昼に終わりますし、朝ごはんとお昼ごはんが出ました。当時の条件としてはとても都合が良かった。マグロを捌いていましたので、ウェートトレーニングをしているような状況で、ただ体力的なことだけが続くのかどうかが怪しいところでしたが、アルバイトをしないでミナ ペルホネンだけで、食べられる状況になるには4年近くかかりました。
変わった経歴ですが、魚市場で働いた時の気づきが、今のミナ ペルホネンのいろいろな理念をつくったとも言えます。材料を無駄にしないとか、職人の技術が大事だとか、ミナ ペルホネンのものづくりにとても繋がっているので、魚市場を経験してよかったなと思っています。もしファッションの夢を持っている人には魚市場での経験を勧めたいなと思うほどです(笑)
田中:私がデザイナーを目指した具体的な理由はないのですが、ターニングポイントは阪神・淡路大震災でした。当時、私は大阪の高校に通っていて、大学で心理学を学べたらいいなと思っていたのですが、震災を経て、結構な心のダメージを自分自身が受けてしまいました。突然人生が終わったり、昨日まであったものがなくなったりする経験をして、そのときに音楽やアートに助けられました。自分を励ましてもらえるものをつくれる人になることが、自分がやりたいことだと思ったはじまりでした。
大学で学んだテキスタイルは、自分が絵を描いて一つデザインをすれば、その柄をリピートして長い反物にしたり、洋服にしたり、次の人への繋がりも感じられるアートだと思って。自分の生涯の仕事にしたいなと思いました。
皆川:当初、ミナへの関心はほぼなかったんですよね?(笑)
田中:はい(笑)。私は大学でテキスタイルを専攻したのですが、当時はまだ「テキスタイルって何?」というような時代でした。雑誌でミナのことを知って、こういうことができたらいいなと思ったんです。
橋本館長
――お二人のデザインが自身の手を離れて、社会に広がって、人々の暮らしや日常を彩る役割を果たしている。そのことについてはどう思われますか?
皆川:デザイナーの仕事から得られる一番の喜びは、自分が時間を費やして生み出したデザインが、自分の命よりも長くこの社会に留まれる可能性があること。そして、自分がつくったものが、いろいろな職人さんの技や工場でのプロセスを経て、ある程度のまとまった数で社会の暮らしの中に入っていけること。一つの種を植えたことによって、木が芽吹いて、果実がたくさんできるように、自分の命を超えて、時間的に尺度を長く持っていることがとても面白いし、嬉しいです。
自分がつくっていること自体の喜び以上に、それが自分の時間を超えたり、自分の知らない暮らしにまで届いたりする可能性があることが、何より魅力的だなと思いますね。
田中:私も同じように思っています。テキスタイルは布をつくった時点で完成ではなく、それを見てくださったり、使いたいと思ってもらったり、次のクリエイターに繋げることがとても魅力的だと感じています。
また、私たちはホテルや街づくりのプロジェクトなどに関わらせていただいており、自分たちの発想が誰かを介して増幅していくことに、とてもやりがいを感じています。
――地面があって、茎があって、花がある。上のところを僕らは見てるわけですが、逆に下もあるわけですよね。
皆川:そうですね。やはり木の大きさに根は比例すると思います。そういう意味では、一本の木が大きくなっていくと同時に、地中にある根っこも同じように広がっていると思います。今私たちがいろいろなジャンルでやっていることは、根っこのほうでもしっかりと繋がっていたり、広がっていたりするのだろうと思っています。
ただ、僕らが自然界の根っこと少し違うのは、根っこの中にも花が咲くこと。自然界では木の上に花が咲いたり、実がなったりするわけですが、僕らの作るというプロセスの中には喜びややりがいが生まれていく。それがデザインの仕事かなと感じます。
――海外の安い縫製工場ではなく、自分の国の身近なところと正面から付き合って、自分のデザインを生かしてちゃんと作品化してくれるところとコミュニケーションをとって、広げていく。その「技」と関わることは、ミナ ペルホネンにとって重要なことだと思っています。
皆川:じつは今日、神奈川レースの佐藤敏博さんがお越しくださっています。佐藤さんと出会ったのは独立する前、私が24歳の時。そういう意味では35年間、ミナ ペルホネンとしては30年間、図案を具体化してくださっている、本当に欠かせない存在です。..あっという間に、30数年が経ってしまいましたね。
佐藤:そうですね。私はデザインをいただいて、皆様にお届けする仲人役だと思っています。皆川さんやスタッフのみなさんの思いをいかに愛用してくださる方々に忠実に届けられるか。いつもそのことを心の中に抱きながら、作業をさせてもらっています。
皆川:職人さんが機械を動かす人に向けて、注意点が細かく書かれた指示書を見せてもらいましたが、そこからは技術的なことや物理的な工程ということよりも、気持ちをどうやって次の人に渡していくかが感じられました。それはコピペ的な対応では到底届かない仕事のプロセスです。佐藤さん自身が、いかに僕らが書いたデザインを佐藤さん自身のものとして取り組んでくれるかを表していますよね。
先ほど、社会に自分たちのデザインが広がっていくことがご褒美のようなものだとお話しましたけど、佐藤さんと「こんな大変さがありましたね」などと一つひとつの柄を振り返るのも、私にとっては喜びの一つです。喜びを一緒につくれるということは何よりありがたく、ものをつくることはこういう喜びを伴った仕事なのだと、いつも実感させてくれます。
佐藤:ものづくりの精神は、最初からずっと変わってないと思うんです。皆川さんの思いを、私は間に入って、皆さんにお届けするだけです。引き続き、仕事を続けられたらありがたいなと思っています。よろしくお願いします。
皆川:こちらこそ、どうもありがとうございます。
「つぐ minä perhonen」ensembleの展示 東京会場
神奈川レースで使用されている道具などが展示されている
photo: Manami Takahashi
――我々美術館としては、例えば絵を壁にかけるときに、額縁に入っていて、ガラスが入っていて、状況によっては周りに結界があって、距離をつくっています。しかし、今回は、その距離感と言いますか、素材との距離感が重要な展覧会の要素になっていると思うんですね。ここからは「素材を味わう」ということを話題にしてみたいと思います。
田中:私は、2002年からミナ ペルホネンで働かせてもらっているのですが、当時、皆川が手で描いているデザインがブランドの中ですでに確立されていて。自分自身が絵とかデザインとかを表現するにあたり、違ったアプローチから表現しないと、独自性が生まれないのかなと思ったので、色紙を作ったり、ハサミで紙を切ったりして、ちょっと偶然的な要素を取り入れてつくるようにしてきました。
美術大学に行っていたということもあるのか、予定調和というか、うまく線を描くことはできていたと思いますが、皆川があるとき「利き手ではない左手で描いてみたら」と言ってくれて。自分の体なのにコントロールできない線を発見しながらデザインをする経験もさせてもらいました。
そして、実際の仕事のなかで、工場や機(ルビ:ハタ)屋さん、糸屋さんに行って、それぞれの素材の感覚や特徴を勉強させてもらうことができました。それを自分の表現の深みに持っていけるようにと、常に考えています。
――体感をしないと、それは養えないですね。
田中:そうなんです。なんとなくこんなものをつくりたいという想像はしても、実際に手に触れたり、なでてみたり、ある重さを持って具現化された布を確かめながら、ようやく実体のあるものに完成していく。その経験値をずっと重ねている状態です。
皆川:デザインの面白いところは、頭の中にあるうちはまだ物質ではないので、テクスチャーがないんですね。アイデアというぼんやりしたものしかない。
ウールと麻をこのぐらいの密度で、こんな縦糸と横糸の組み合わせて....アイデアに対して思考を加えて、材料を見つけて、職人さんや工場を作る道具を見つけて、組み合わせていくとかたちになる。頭の中にあることが物質に変わっていくのです。
“sleeping flower”は、最初は「迷彩服の中に平和を入れられないのだろうか」というところから出発しました。迷彩柄を花柄で表現しても、グラフィックとしてはなんとなく単調な感じもするし、説明的になりすぎる。共存しているのに隠れているみたいなことはできないだろうか。布を切ったら中に花がある状態にできないだろうか。それには色は何色入れられるか..やりたいことと制約をどんどん精査して、選択して、かたちになっていくのが、とても面白かったです。
「どっちに行きますか」という分かれ道を何十も超えながらたどり着くことが、アイデアの結果となり素材になる。その肌触りとかテクスチャーとか、そういうことだけではなくて、アイデアがものに変わったときの感覚、手で触った感触とは違う心で感じる感触があるのです。展覧会の「コーラス」パートのように、いちど生まれたものでも、またこのアイデアを使って、こんなふうに展開させられるなと新しい道筋が見えてきたりする。僕らは、その思考と物質を行ったり来たりしている感じがしますね。
――「つぐ」展の「remix」のプロジェクトも、「せめて100年続くブランド」という思想が土台にないと成り立たないと思いますし、そこに感銘を受けています。お二人にとって「つぐ」とはどういうことなんでしょう?
田中:せめて100年というのは、自分がいなくなっても残ってほしいという思いが込められていると思います。いわゆる営みと言われることに対して、やはり人と人との温度を持った会話があったり、思いを伝え合うことが日々を作っていると思っています。自分がいなくなっても、この思いみたいなものは消えてなくならずに、ずっと伝え続けていきたい。皆川が「せめて100年」で始めた30年前と、私が2002年に関わり始めたときも「せめて100年」と思っていましたし、また新たなスタッフも「せめて100年」という思いを抱いてくれていると思います。
皆川:そうですね。自分の命の時間を超えて想像していくことは、とても意義深いことだなと思います。自分たちがやっていることは、ものをつくって、ものを買っていただいてというある種の経済行為でありながら、経済価値をつくりたいというよりは、社会的価値をつくりたいと思っています。自分たちが生み出したデザインが、社会的にどのように貢献しているか、喜びにつながっているかということがいちばん大事にしたい意義です。経済的な価値や自己満足にとどまることではなくて。
そこに暮らす人の記憶としてどのような意味を持ちますか、それは喜びになっていますか、そのためのデザインは何ですかと問いかけていく。ミナ ペルホネンがここまで続いたからには、それをずっとずっと続けていくことがミッションだと思っていいのだと考えています。
――ミナ ペルホネンで目指しているものは「特別な日常服」だと。それはかみくだくとどういう意味なのでしょう?
皆川:そうですね。ファッションは何か特別な「ハレ」の日に素敵な服を着ることが、ぱっと思いつくことかもしれませんが、でも、いつもと変わらない、特別なトピックスがないようなときこそ、自分の好きな服を着ていい。誕生日やパーティーの日はその時間自体に喜びがあるわけですけど、繰り返している毎日の時間の中で、好きな服を着ている、つまりその服の中にいるということは、とても嬉しいことじゃないかと思うんです。
だからこそ、「特別な服」ではなくて、「特別な日常服」を目指していくことで、何か、ミナ ペルホネンらしさが出せるし、「ハレ」と「ケ」で分けてしまわないようにと考えています。全てが日常の中にあるのだと捉えてみると、当たり前と思っている日常も特別に感じるのではないかと思うのでこのコンセプトを心に留めてきたのです。
田中:ミナ ペルホネンでつくった女性用の服を、皆川はデザインした服を着ている女性を見ている状態ですが、私はそれを着る側であり、見てもらう側でもあるので、自分なりの高揚感があったり、見ている方が元気になってくれたり、素敵だなと思ってくれたり、その人の時間にその洋服が記憶として残ることに、意味があるのではないかということも感じながらつくっています。
――お二人のお話をもっと伺いたいところですが、あっという間に時間が経ってしまいました。ご来場くださった皆様、今日は本当にありがとうございました。
文:五月女菜穂
